見た目は飄々とした狡猾な狐なれど、
中身はやけに執念深い蛇のように、底が深く得体が知れぬ。
彼は決して心明かさず、
昔から変わらぬ笑顔で必ず私の傍におり、
いつも纏わりつくような視線で射抜く。
いつからだったろう。
そんな彼に私が気付き、恐れるようになったのは。
そして、遠ざけるようになったのは。
それなのに今でも彼は、やっぱり私の傍にいる。
そんな彼は、私の
『隣のおにいさん』
『 隣のおにいさん ・ 1 』
時間はもう夕刻でありながら、いつまでも薄明るい夏の夕べ。日中凶悪なまでに暑い太陽に焼かれ、
熱を帯びた首筋の汗を手で拭いつつ、学校から帰ったルキアはいつも通り自宅のドアを開けた。
「ただいま帰りました。」
「おかえりぃルキアちゃーん。」
「!?」
帰宅したルキアを出迎えたのは、家族ではない男の声。
ルキアは急ぎ声のしたリビングへ駆け込むと、そこにはエアコンの効いた快適な部屋で家人より寛ぎ、
長身をだらしなくソファに投げ出し寝そべった男の姿にルキアは心底呆れた声を上げる。
「やはりギ・・・市丸さんでしたか。」
「夏休みのはずなのに制服着込んでどうしたん?
こない遅ぅ帰ってきたりして、不純異性交遊やったら僕が許さんよ。」
言葉の独特なイントネーションで聞いた瞬間即断できたが、やはり声の主は隣家に住む気ままな大学生。
彼の名は市丸ギン。
ルキアが幼少時、隣に住んでいた優しくも『一癖』ある7年上の幼馴染だ。
彼はルキアが8歳の頃まで家族で隣家に住んでいたのだが、ギンの高校進学時に引越していったものの、
三年後、大学受験でなぜかギン一人こちらへと舞い戻ってきた。
なのに全く受験勉強に取り組まず、結局三度受験に失敗したのだからとんでもない放蕩息子であろう。
しかも今では不便な男の一人暮らしをアピールし、父親単身赴任中のルキアの家へと食事目当てにほぼ毎日のように入り浸るのだから図々しいにもほどがあろう。
昔からギンはルキアを猫っ可愛がりしながらも、言葉の端々に意味深な毒を撒き散らし、
どこか得体が知れぬ視線で見つめてくるこの幼馴染を、昔は『ギン兄』と親しく呼んでいたルキアだったが、
今ではあえて『市丸さん』と呼び方も変える程、ギンとは距離をとり苦手意識が芽生えていた。
「つまらぬ戯言はおよし下さい。夏休みでも部活がありますので。」
「この暑い中ご苦労さんやね。部活て、ルキアちゃんはなにしとるの?」
「水泳です。」
「へぇ!ルキアちゃんの水着姿が毎日拝めるなんて羨ましいなぁ。」
「ただの競泳水着ですよ。」
「ルキアちゃんはわかっとらんね〜そんなん方が、マニア受けするんやから。」
「そうですか。それより何故市丸さんだけがうちにいるのです?私の母はどうしたのでしょう?」
いつものギンの軽口をまともに取りあう気もないルキアの返答に、
ギンは眉を八の字にしかめ、顔だけはやけに申し訳なさそうにしてみせた。
「それなんやけど、すまんなぁ。実はおばちゃんの事、うちのおかんが拉致ってしもたんよ。」
「はぁっ!?」
ギンの口から飛び出た『拉致』とゆう穏やかでない単語に、ルキアがぎょっとしていると、
ソファから体を起こしたギンが呆然と立ち尽くすルキアをすまなそうに見上げる。
「実は僕のおかんが今日こっちに出て来てたんやけど、突然、久々におばちゃんと遊びに行きたい言い出してな、
温泉行く言うて強引におばちゃんのこと連れ出してしもうたんや。ほんま、かんにんな。」
「ならば今夜は・・・」
「向こうに泊まりやて。せやからおばちゃん。
ルキアちゃんに今夜一晩気ぃつけて言うてたよ。」
「そう、ですか・・・」
それでルキアは納得する。
ギンとそっくりな顔をしたギン母は、やはりギンの母らしく一癖も二癖もある兵で、昔から突然なにか思いついてはルキアの母を連れ歩いたものだった。
ギン母の強襲は昔から天災並に仕方がないと悟っていたルキアは、それ以上の言及を諦め、少し心細げに視線を伏せた。
だがそんなルキアの様子を目ざとく見抜いたギンは、裏のありそうな笑顔を顔いっぱいに湛えた。
「なんやルキアちゃん、えらい淋しそうやね。一人が淋しいんなら、僕が泊まってあげよか?」
「私とてもう子供ではない!一人でいるくらいなんともない!」
「すまんすまん。そうやね。ルキアちゃんも大きゅうなったんやもんね。
せやけど僕から見れば、ルキアちゃんはいつまでも小さい頃のまんまみたいやからなぁ。」
「・・・・・」
子ども扱いされたことにカッとなり、思わず声を荒げたルキアをとりなすようにギンは薄く笑いかける。
ところがルキアといえば、ギンのフォローが気に入らず、拗ねたように瞳を怒らせ口を引き結んでいるが、ギンは気付いていないようであった。
「せやけど最近のルキアちゃん、僕に随分ヨソヨソしいんとちゃう?
子供ん時みたいに『ギン兄ぃ』呼んでくれとったらええのに。」
「・・・私も、年頃ですゆえ。」
「年頃言うてもここが全然変わっておらんよ〜ルキアちゃんのお友達みたいに、もっと大きく育てなあかんやん〜」
「なっ!?そ、それはセクハラですよ!そんな事は放っておいてください!」
自分から冷たくツンと顔背けるルキアに、ギンは自らの胸の前でルキアにはない豊満な胸の形を手で表し強調する。
この仕掛けに簡単にかかったルキアは再び声を荒げてしまい、愉快そうに笑うギンの笑顔に苦虫を潰したような表情で睨みつけた。
「あはは〜すまんなぁ。気にしとった?ついほんまのこと言うてしもうた。」
「〜〜〜っ!」
いつまでもこんな不毛な押し問答を繰り返してはいられない。
今夜母が帰らないなら、ギンには早々にお帰り頂くことが先決であるとルキアはなんとか気を取り直す。
「・・・ところで市丸さんは、私に母の伝言を伝えてくれる為だけに、ここで待っていてくれたのですか?」
「そうやけど、それだけでもないんよ。
ほんまは今夜、こっちで夕飯食わしてもらおう思うてたんやけど、アテが外れたな〜困ったなー今夜の晩飯、どないしょう〜」
ルキアの質問に待ってましたとばかりに、わざとらしく嘆き喚きちらすギンに、ルキアは内心うんざりし、盛大な溜息を吐き出したい気分になった。
この様子では今夜、食事を出さねばてこでも帰る気はなさそうだ。
「・・・味の保証はできぬが、それでも良いなら私が作ろうか?」
「え!ほんまに!いやーすまんなぁルキアちゃん。ほんま助かるわぁ♪」
「・・・・・」
明らかに気乗りしておらぬ小さな声で提案すると、これに瞳を輝かせたギンの調子の良さに押しきられ、ルキアは約束を取り付けさせられた。
まぁそうは言っても、本当は母親不在で一人の夜の頼りなさも手伝い、こんな奴でも食事の相手はいる方がマシかもしれぬと思い直し、
厚かましいギンの振る舞いにも多少は目を瞑る事にした。
「し、しかし、随分と汗をかいてしまったし、先に風呂に入りたいのだ。
夕飯はその後になる。多少時間はかかるが構わぬか?」
「何時間かかってもええよ!そしたら僕は、ここで待たせてもらうわ〜」
「そうか。それでは今しばし好きにしていてくれ。」
「いってらっしゃーい♪」
いささか不安げにギンを残し出て行くルキアの後姿を、滅多に見開かれることのない細いギンの目が開眼して見送っており、
しかもギンも無意識のうちにぺろりと舌が唇を舐める仕草は、まるで蛇が獲物に狙いを定めた姿そのものであった。
しかし残念ながらルキアにその姿は見えておらず、身に迫る危険に気付かずに真っ直ぐ風呂場へと進んでいった。
心地良い温めのシャワーを頭から浴び、ルキアは海燕の事を思っていた。
海燕は水泳部顧問の、三十歳という年齢を感じさせない若々しさで、陽気で明るい人気教諭だ。
大人のくせに負けず嫌いなところもあり、今日も生徒相手に本気でレースに挑んでいた。頼れる上に少年らしさも忘れない。
そんな身近な大人の男性に、ルキアが淡い恋心を抱くのもごく当然で、今のルキアは恋に恋する時期であり、
海燕を想うことで自分の中の乙女な部分をただ満足させたかったのだろう。
きっと本当の意味での恋とは違っているかもしれないが、それでも海燕と言葉を交わし、
海燕の事を想っている時がルキアにとって一番幸福な時間であった。
僅かな時間ではあったが、今日も海燕に指導してもらえた。
明日も来れそうだと言っていたし、明日もなにか指導をあおいでみよう。
そんな風に海燕の事を想い、ふわふわと浮き立つ可愛いらしい恋心を抑え、ルキアは時間をかけ丁寧に体を洗い風呂場を出た。
しかしそこでルキアは重大な事に気がついた。つい、いつもの癖で着替えを準備せず、風呂へ入ってしまった。
最近は学校から帰ると直接風呂へ入っており、その間に母が着替えを脱衣所へと準備してくれていたのだ。
当然だがその母がいないのだから、ここに着替えは準備されていない。
咄嗟に先程脱いだ下着や服を身に着けようかとも思ったが、折角洗った体に汗臭い衣服を再び身に着けることは躊躇され、
ルキアはそっと脱衣所から顔を出し、ギンの居るリビングの方をそっと窺う。
自分の部屋へ行くにはリビングの前を通り過ぎ、階段を上がらねばならぬのだが、リビングのドアはしっかりと閉まっているので、ルキアは小さく安堵した。
ドアが閉まっているならば、その前を素早く駆け抜ければなんとかなる。
バスタオル一枚をきつく体に巻きつけ、ルキアは覚悟を決めると廊下に立ち、出来るだけ足音をさせぬよう忍び足にゆっくりと歩み出す。
そして、リビングの前へと差し掛かり、そこだけは素早く通り抜けようと駆け出した途端、突然なんの気配もなく扉が開かれ、ギンがひょっこりと廊下へ現れた。
「うわぁっ!?」
「ひゃぁっ!?」
突然の事態に走り出したばかりのルキアは避けきれず、ドンッ!とゆう衝撃にギンの胸の中へ体当たりするように飛び込んだ。
咄嗟にギンはルキアを庇い、抱きかかえるようにしてその場に尻餅をつき、ルキアはそんなギンの上へと乗り上げた。
「あいたた・・・大丈夫かルキアちゃん?怪我とかしとらん?」
「は、鼻をぶつけたが、おそらくは大丈夫・・・」
「そんならええけど、なんで廊下でかけっこし・・・・・」
ぶつかった衝撃に視界が揺れ目を回したルキアは、ギンがふいに言葉を途切らせ沈黙したことを不思議に思い、俯いていた顔をあげた。
「どうした?どこか痛めでも・・・」
その時だった。
ルキアは自分がなにもまとっていないことに気がついた。
胸元に巻きつけていたはずのタオルは外れ、腰までずり落ち、毎日の部活動で薄っすら競泳水着の型に日焼けした下の、
真っ白な肌にささやかながらも形良い胸の膨らみが、ギンの視線の先で可愛いらしくふるんと揺れた。
「いっ・・いっ・・いっ・・・
やああああああああああっ!」
あまりの出来事に瞬間頭の中が真っ白になったルキアは、この状況を完全に把握するのに時間を有し、
一瞬の硬直後力の限り絶叫すると、慌ててバスタオルを引き上げ覆い隠し、急いで階段を駆け上がると一目散に自室へと逃げ込んだ。
入るとすぐに部屋の鍵をかけ、ルキアはそのままベットの中へと潜り込み、堪えきれずほろほろと涙を流して泣き出した。
見られた!見られた!
よりにもよってギン兄に、幼少期から家族ぐるみで交遊のある男性に、裸を見られてしまった!
恥ずかしい!恥ずかしい!
こんな醜態を晒しては、もう一生ギン兄とはまともに顔を合わせられない!合わせたくない!
いやだ!いやだ!もういやだ!
こんなのいやだ!恥ずかし過ぎる!
恥ずかし過ぎて死んでしまう〜!!
激しい羞恥にルキアが布団の中でぐずぐずと鼻を鳴らし泣き崩れていると間もなく、トントンと部屋のドアをノックする控えめな音が聞こえた。
「あー・・・ルキアちゃん。
ちょっとええ?」
「!!!」
あまり聞いた覚えのない、遠慮がちなギンの声にルキアはハタと我に返る。
そうだった。あまりのショックに忘れていたが、まだギンはこの家にいるのだった。
先程の自分の無様な様で頭はいっぱいであったが、とにかく今はまともにギンと顔を付き合わせることなどかなわず、すぐに帰ってもらわねばならぬ。
返答なくしばしの沈黙に焦れたギンが、もう一度ノックし呼びかけた。
「ルキアちゃん?きみ大丈夫か?ここ、開けてもええの?」
「だっ、だめだ!」
鍵はかけてあるのだから、ここが開けられることはないにも関わらず、思わず布団から顔を出したルキアは大声で叫ぶ。
なんとかルキアを落ち着けようと、ギンは優しい声音で柔らかく声をかけ続ける。
「そんな言うてもルキアちゃんが心配なんやもん。な。少しだけ、顔見せてくれん?」
「だめだだめだだめだ!わわわ私は大丈夫だから今日はもう帰ってくれ!!」
「いやや。ルキアちゃんの顔見んことには帰れんよ。」
「今ギン兄に会うことは絶対に無理だ!あ、あんなことがあったのだ、私の心情も察し、頼むから帰ってくれ!!」
何を言っても受け付けぬ頑ななルキアの態度に、落胆したようにギンは声を低く落とす。
「・・・そしたらしゃーないね。
僕帰るから、暗ぁなったし、すぐお家の鍵かけといた方がええよ。」
「・・・・・」
そう言い残すとすぐ、ギンはドアの前から離れてゆき、階下から玄関のドアを閉めるバタンという音がした。
※一護もHP開設記念日もスルーしちゃってたけど、今年で6回目のギン誕でございます。
改めて新作は何も書けなかったので、過去に出したギンルキ個人誌第一弾をせこく4度にわけて更新しようと思います。
背景だけは華やかに貴方に愛をこめて花束を!市丸ギンおめでとう!今でも大好きなんだから!!
2014.9.10 (2011.2.14発行作品)
material by 戦場に猫