男を、拾った。
夜の公園で、捨てられた子猫のように、丸くうずくまる、男を拾った。
地下鉄の扉を出ると、湿った空気がふっと鼻をかすめた。アスファルトの濡れた匂いがする。
改札を出るとその匂いはさらに強くなり、地上への階段を登る頃には、はっきりと雨音が聞こえるようになっていた。
本社ビルを出る時に降っていた雨は、まだ止む気配もないらしい。
珍しく今日は邪魔が入らなかったので、面白いように仕事がはかどった。そのおかげで、定時を過ぎるのも忘れて没頭してしまった。
雨に濡れるのは嫌だけれども、心地よい疲れのおかげで今日のルキアは気分が良い。
さくら色の傘を開くと、ルキアは颯爽と夜の雨の中を歩き出した。
地下鉄の駅とルキアの住むマンションの間には、大きな公園がある。
公園を貫くように伸びている歩道を、ルキアは通勤に使っていた。習慣で同いつものように、薄暗い公園に足を踏み入れる。雨のせいか、時間帯のせいか、人影はなかった。
レンガ敷きの歩道に、自分の足音だけが響く。その孤独な足音すら、今日のルキアには心地よかった。
公園の中ほどまで来たとき、街灯の下のベンチに、男がうずくまっているのが見えた。
雨に濡れて、片膝を立ててうなだれるように座る姿が、ぼんやりとした街灯の明かりに照らされている。
（ホームレス、か…）
この辺りはちょっとした高級住宅地で、治安は良いけれども、それでも近頃はホームレスを見かけることも珍しくなくなった。
こんな時間に、公園を通るなど浅はかだっただろうか。できれば関わりたくない。自然と、ルキアは歩く速度を速めた。
早足で通り抜けながら、それでも思わず、目を向けてしまう。
うずくまっているのは、長身の男だった。
酔っ払っているのか寝ているのか、僅かに肩が上下しているのを見ると、死んではいないらしい。
ホームレスらしくない、スーツ姿。少し先の尖った、プレーントゥの革靴。
シャツの袖口から、大きな手がだらりと伸びている。左手の手首に、大きな銀盤の時計がはめられていた。
その時計に見覚えがあるような気がして、思わず足を止める。
傘に雨粒がぱたぱたと当たる。その音に気づいたのだろう、男がゆっくりと顔を上げた。
その顔を見た瞬間、ルキアは思わず呟いていた。
「―ギン」
「何をしておるのだ！」
男のネクタイを掴むと、引きずるようにして別のベンチへ連れて行く。大きな木の陰にあるその場所は、完全に雨を防ぐことはできないけれど、それでもさっきの場所より幾らかはマシだろう。
「こんな雨の日に！風邪でもひいたらどうするのだ！」
ああ違うそうじゃない、聞くことは他にもある、と思いながら、ルキアは戸惑いのままに怒り散らした。
よろめくようにベンチに座ったギンは、けろっとした顔でルキアを見た。
「だって、あそこからしか見えへんもん」
「何のことだ！」
「ルキアちゃんの部屋」
絶句したルキアをよそに、ギンはひょいと木立の奥を指差した。
「ほら、ここからも見えへんし」
そう。この公園を通勤に使っているから、ルキアも知っている。確かに、あのベンチの場所からしかルキアの部屋は見えないのだ。
「まさか、いつからここに…？」
「分からへん」
「は？」
「ルキアちゃんに振られて、気がついたらここにおった」
なんだか大事な脈絡が随分と省略されている、と思いながら、それでもルキアは必死に記憶を手繰った。
市丸ギンはルキアの上司だ。正しく言えば、直属の上司の、そのまた上司に当たる。
何が気に入ったのかは分からないが、入社後まもなくからギンは、ルキアにちょっかいを出すようになった。
おかげで仕事ははかどらないし、他の女性社員からは嫌がらせも受ける。
それで業を煮やし、つい昨日の朝、ルキアはギンに告げたのだ。
「もう私に関わらないで欲しい。私は、貴方に興味はない」
その翌日、つまりは今日、ギンは姿を現さなかった。この男が邪魔しに来なかったから、ルキアは仕事が進んだのだ。
「あぁ、びしょ濡れや」
今更のように言うと、ギンはゆらりと立ち上がり、スーツの上着を億劫そうに脱いだ。びしゃ、と重たそうな音を立てて上着がベンチに放られる。
街灯の弱々しい明かりが、ギンの輪郭を頼りなく照らす。
傘を握り締めたまま呆然と立ち尽くすルキアの前で、ギンは濡れてきつくなったネクタイをぐいと緩めた。
そのまま長い指で、くしゃりと髪をかき上げる。
濡れて束になった髪から、ぽたぽたと滴が落ちる。
少し尖った顎のラインを、つるりと滴が滑る。
スーツでは分からなかった、広い肩。真っ直ぐに刻まれた鎖骨。
水気のために、少しだけ濃くなった体の匂い。濡れた唇。
シャツに透けて見える、生身の、肌。
いつも職場で会うギンではなかった。
そこにいたのは、獣の匂いをまとった、美しく危うい雄だった。
思わず見つめ、動きの止まったルキアの前に、ふっとギンが迫る。
はっと気づいて警戒するが、街灯を背にしたギンの表情はルキアには分からない。
「僕が何考えとったか、分かる？」
「―え？」
「ここでずっと、ルキアちゃんの部屋見ながら、僕が何考えてたと思う？」
「な…」
じり、と後ずさりしたルキアの背が、木の幹に行き当たる。その両手を、ギンが素早く掴んだ。
「何を…っ」
お気に入りの傘が、地面に転がる。手を振り放そうともがくルキアが、きっとギンを睨みつけた。
「公園だぞ、ここは！」
「なら、誰も来ぃひんところなら良えの？」
「―っ」
「どうせ部屋には上げてくれへんのやろ？」
息が触れ合うほど近くに顔を寄せると、ギンは低い声で告げた。
「―なら、何処でも一緒や」
細い両手を握ったまま、耳元に口を寄せる。
「ずっと、考えとった」
真っ白な首筋にゆっくりと口付けを落とす。
「ルキアちゃんを抱いて、」
そのまま鎖骨へと唇を滑らせ、細い骨の感触に歯を立てる。
「唇奪って、」
ぬるりと舌で喉元を舐め上げ、小さな顎をなぞると、
「僕のもんにしてしまお、って」
小さな唇を押し開くようにして、無理やり唇を重ねた。
「や…」
重ねた唇の隙間から、ルキアが小さな悲鳴を上げる。
深く、冷たい口付けがルキアを襲う。体温が奪われてゆく感覚に、細い体がぶるりと震える。
いつの間にかブラウスのボタンが外され、雨で冷え切った手が、這うように腹をなぞる。ぞわりと鳥肌がたち、身がすくむ。
湿った指先はそのまま上へ伸び、下着の合間から柔らかな胸の膨らみを掴んだ。
「やめ、ろ…っ」
自由になった両手で懸命に体を押しても、ルキアよりずっと大きなギンの体はびくともしない。
それどころか、シャツが濡れているせいでギンの肌の動きがじかに指先に伝わり、そこにある生身の男の体を意識してしまう。
息も奪うような口付けが、角度を変えて、執拗に繰り返される。震える胸の先端を、指先でじりじりと弄ばれる。
誰か通るかもしれない、と意識は周囲へと向かうのに、ギンに触れられたところはじんじんと熱をもって疼き始めた。
「ぁ…ふ…」
雨音に油断して、甘い声が漏れてしまう。
絶え間ない雨が、少しずつ二人と世界を引き離してゆく。
世界に二人だけしかいないような錯覚に、ギンは満足げに口の端を釣り上げた。
息の上がり始めたルキアを不意に抱え上げると、ギンはベンチに腰掛けて、自分の膝の上に座らせた。
ルキアと同じ高さになった細い目がゆらりと笑う。
「このほうが、ルキアちゃんの顔が良お見える」
ギンの膝を跨ぐように座らされたせいで、スカートの裾がめくれる。
居心地悪そうに身じろぎするルキアをぐいと抱き寄せると、ギンは再び可憐な唇を吸った。
「ん…あ…」
柔らかく冷たいルキアの肌をまさぐる。望んでいた体が腕の中にある、その悦びが獰猛な欲望となって、小さな体をむさぼる。
背中から腰を撫でるたびに、ルキアの両足がびくびくと痙攣する。
壊れそうに頼りない華奢な体は、確かな力強さでギンの愛撫に応えはじめていた。
いつの間にかルキアは、自分から口付けを求めていた。おずおずと差し出した舌を、ギンの舌が絡め取る。
ちゅぷ、と音が立つたびに気が遠くなってゆく。
ぼうっとした頭のまま互いの下を求め合っていると突然、下のほうから、ぴり、と音がした。
「…何を…っ？」
「邪魔や、これ」
ぞんざいに言うと、ギンはルキアのストッキングを股の部分から引き裂いた。その破れ目からするりと指を挿し入れる。
「や…だめ、だ…っ」
慌てて首を振るルキアを無視して、ギンの指先は容赦なく、下着の奥の秘められた部分へと伸びた。
「ひ…あ…っ」
大きな指が、ゆっくりと割れ目をなぞる。柔らかな蕾と秘所を同時にいじられて、たまらずルキアはギンの肩に顔をうずめた。
「んん…ひん…っ」
木陰とはいえ、既にルキアも随分と雨に降られていた。
はだけたブラウスの袖の部分だけが、華奢な腕に張り付いている。
雨なのか唾液なのか、つやつやと光る唇がギンを求める。
水気で重たくなった長い睫毛の合間から、とろんと潤んだ両目が見つめてくる。
この媚態に、兆さない男などない。
「会社でツンと澄ましてるより、今のほうがずっとべっぴんさんや」
ため息まじりのギンの言葉に、ルキアがいやいやと首を振る。そうしている間にも、温かい粘液がギンの指にぬめぬめとこぼれてくる。
雨のせいで卑猥な音が聞こえないのは残念や、とギンはぼんやり思った。
ごそごそとギンが動く気配がしたかと思うと、ふと硬いものが、ルキアの内股に触れた。
「っギン…！」
「ルキアちゃん、大好きや」
出し抜けに言われた告白に、ルキアが眼を見開く。
「好きやから、堪忍な」
意味がわからず固まったルキアを見つめたまま、ギンは膨れ上がった熱の塊を、ルキアの陰部にこすりつけた。
びくりと体を強張らせ、腰を浮かした隙を、ギンが見逃すはずがなかった。
ルキアの細い腰を片腕で囲ったまま、下着の横合いから、先端を押し当てる。
そのまま薄い肩を押さえ込むように抱き寄せると、既に濡れていたそこは、ねちりと音を立ててギンを飲み込んだ。
「や…あああ…っ」
思わずのけぞったルキアの体を、ギンは慌てて捉え直した。
腰の奥が弾けそうに熱く、体に力が入らない。
そのせいでギンの楔から逃れることができず、さらにずくずくと快楽の波が押し寄せるままになってしまう。
そうして座っているだけでも限界がきそうなのに、ギンはルキアの柔らかな臀部を掴むと、ゆっくりと揺り上げ始めた。
「あっあっあ…っ」
自宅でもホテルでもない、ここは人目に触れる場所だと分かっているのに、声が出てしまう。
繰り返されるリズムに耐えきれず、ギンの首に両腕を回し、すがりつく。
濡れた互いの肌が、ぴたりと吸い付く。それが雨なのか汗なのかも分からないまま、また、唇を重ねる。
こうなることは、分かっていた。
この男から逃れられないことくらい、ルキアには分かっていた。
ただ、怖かったのだ。
誰かから強く想われている、ということが。
想われることで、自分を見失ってしまうことが。
―それなのに、堕ちることの、なんと容易いことだろう。
「あっ…ん…ギ、ギン」
すすり泣きのような声が、ルキアの口から漏れる。
「ん」
「い、いい…」
くすりと笑い、ギンは腰の動きを早くした。
体の奥深く、一番柔らかいところを攻め立てられる。
「あ…ぁんっ…気持ちいい…っ」
「僕も、や…」
ギンの声が上ずっている。
意識しているのかいないのか、ルキアの襞の奥は、ぎゅうぎゅうと絶え間なくギンを締め付け、快楽の頂へと誘う。
止まない雨の中、交わっているところだけが熱く、泣きたくなるほどに心地よい。やがてくる放出の予感に、ギンはぎゅっと強く眉根を寄せた。
「っ…ルキアちゃん、僕もう…我慢でけへん」
「わ、私も…っ」
さらに深い口づけをしたまま、ギンの腰の動きが早くなる。悲鳴に似た声を上げて、きつく抱きしめ合ったまま、二人は同時に果てた。
ギンの膝の上でくったりと脱力したルキアは、広い肩に頭を預けたまま、目だけでギンを責めた。
「こんな…破廉恥な」
「刺激的やったなぁ」
「…誰か来たら、どうするつもりだったのだ」
じろりと睨みつけたルキアに、ギンはしばらくきょとんとして頭を巡らし、地下鉄の駅がある方角を指差した。
「ルキアちゃん、入り口の立て看板見てへんの？」
「え？」
「ここ、昨日から工事で閉鎖中」
嗚呼、とため息をついてもたれかかるルキアの肩を抱く。
そうしてギンは嬉々として、このままもう1回できひんやろか、と悪事の算段を考え始めた。
2011.6.18