ギンの所からマンションに逃げ帰ったルキアは、部屋に入るなり真っ先に熱い風呂を溜め、その間に何度もうがいをして力強く歯を磨いた。

そしてすぐに服を脱ぎ捨てけがれを清めるかのごとく、
ギンに撫で回された部分を集中的に白い肌が赤くなるまで長い時間をかけて身体を擦り、
それを終えてからやっとゆっくり湯船の中に身を沈めた。


ルキアは怒り悲しみ混乱にぐらぐら揺れ、擦りすぎてひりひりと肌が痛むのも構わず熱い湯の中でじっとしていた。



初めてのキスが、あんな男に奪われ、汚されてしまった。



いや、あれは暴力でしかない。


キスとは違う。

絶対に別のものだ。



そう思おうとしても、ルキアの唇はギンの唇の感触を知っている。

唇と唇が重なり合う行為。

それはどんな形であれ、誤魔化しようがなくキスでしかないのだ。



そう思うとルキアの気持ちは沈んでいき、眉間の皺はより深いものになる。




誰にも触れられなかった身体を無遠慮に撫で回され、嫌悪感と恐れに頭の先まで寒気が走った。



なぜ、こんなことに。



ルキアの瞳から涙が溢れ、熱い湯船へと落ち小さな波紋が広がった。

海燕と同じ歳になるまで、決して誰も寄せ付けず、何も知らないままでいたかった。

しかし今日ギンによって、ルキアは大切に護っていた色々な想いを無理矢理引っ張り出された挙句、無残に踏みにじられたような気がした。


許せない。許せない。

私を、私の先生に対する想いを、莫迦にしてあざ笑いながら踏みにじった。



ルキアの顔の下で、いくつもの小さな波紋が広がっては消えてゆく。
ルキアは身体を丸め、小さな嗚咽を漏らしながら、くやしさと悲しさにいつまでも泣き続けた。









やっと風呂から上がると、やや湯あたり気味に身体はふらつき、ルキアはすぐにベットに横になった。

気分が優れず食欲がない。
眠るには早すぎる時間ではあったが、短い時間の内に涙が枯れる程泣き続けた上に、
色々な事が起こりすぎ緊張と怒りの連続に、共鳴するように身体がダルく、とても起きてはいられなかったからだ。


部屋の明りを消して布団に入る。


するとその静けさに混じって、微かな音が響いてきた。


気がつかなかったが、窓を雨が濡らしている。



ルキアの大嫌いな、寒く、冷たい秋の夜の雨。


あの日をまざまざと思い出させる、悲しい雨が。



先生が怒っているのかもしれない。
誓いをたてたくせに、強制とはいえ誰かに触れてしまった自分のことを。



ルキアは小さな雨音を無視するように、ギンへの怒りに意識を集中する。



許せない。

あいつは絶対に許してはならない。

大体あいつになにがわかるのだ。

先生の事も、私の事も。

なにも、なにも知らないくせに。

勝手なことを言い散らかして、私の誓いを揺さぶり壊そうとするなんて。



ギンの捨て身の言葉と行動に、頑なに護り続けていたルキアの想いが、少しずつ迷いを生じ始めていた。



『許されるのか?私は、許されてもいいのだろうか?』



しかしその一方で、それを否定する声も聞こえてくる。



『許される訳がない。あの男の嘘に惑わされるな。現に、あいつは私に嘘をついたではないか。』



ルキアの頭の中で反発しあうふたつの思いが戦い合い、勝敗の行方がわからぬまま、疲れにルキアは混沌とした深い眠りに落ちていった。

 

 

「よぉ朽木!久しぶりだな!!」


ルキアは懐かしい声に呼ばれ振り向いた。
そして信じられない光景に、目を疑い身体が硬直してしまう。




そこには海燕が、笑って立っていた。



ルキアは信じられない思いで、しばし呆然とその笑顔に見惚れる。


海燕が、笑っている。


大好きな、あの笑顔で。


あの時と変わらぬ、あの、笑顔で。


十年ぶりに見た海燕の笑顔に、ルキアは目が離せずに、すっかり魅了されてしまう。



海燕が、笑っている。




「・・・うぉい!!!先生が挨拶してんのに、なに無視してやがる!
挨拶は、円滑な人間関係を築いていく上で、最も大切で最低限の礼儀だって、俺は教えなかったか?!」


黙っているルキアに痺れを切らし、海燕は早口にそうまくし立てると、
猛禽類さながら獲物を掴みとったような勢いと豪快さで、ルキアの頭を片手でがっしり掴みあげた。


「お、お久しぶりです!海燕先生!!」


海燕の勢いに押され、ルキアはオウム返しに挨拶を返す。
海燕に話したいことはたくさんたくさんあったはずなのに、こんなに急では他に言葉が見つからなかったからだ。



すると海燕は満足したようにニヤリと笑い、頭は掴んだままでルキアを見下ろし大きな声を張り上げた。



「おう!相変わらずオメーは小せぇなぁ。ちゃんと飯食って、元気にやってんのか?」




これは夢だと思いながらも、ルキアは胸の詰まる思いで海燕を見上げ、その大きな手の暖かな感触に涙が滲む。
それでもなんとか泣き出さないように気を張りながら、震える声で小さく答えた。



「・・・身長は、中学の時から6センチしか伸びませんでした。
ご飯は日に三度ちゃんと頂いてます。
元気に・・・やっています。」



すると海燕は露骨におかしな顔をして、ズイッとルキアに顔を近づける。


「なんだお前。いい度胸だな?俺に、嘘つくようになったのか?」

「・・・嘘。ですか?私は、なにもーーー」


困惑したルキアの様子に、海燕は顔を横に向けわざとらしく大きな溜息をひとつつく。
それからルキアへと向き直り、ギッと睨みつけた。

当然ながらルキアは怯み、顔を逸らそうとするが、
海燕の手に固定され、そこから逃げることが出来ない。


動揺に目を泳がすルキアを見据え、海燕はルキアを睨みつけたまま低い声音で
囁いた。



「全然元気になんかやってねぇだろ?十年もつまんねぇこと、グジグジずーっと考えててな。
それが元気にしてるだって?ふざけんな!!俺様が、知らないとでも思ってたのか?」



「つ、つまらないことってなんですか?!私は・・・私は、ただ先生を・・・!!」



「それが、つまんねーことなんだよ!!」



つまらないことと海燕に言い切られ、ルキアは一瞬気色ばんだが、それからふいに暗い顔をして俯いた。



違う。

私が先生に言いたいのは、こんなことじゃない。


私が言いたかったのは、私がずっと先生にーーー




ルキアはしばし沈黙し、それからやっとの思いで口を開く。
響く声は暗く重く、罪の贖罪にルキアは泣きそうになるのをそれでも必死になって堪えていた。


「・・・先生。今までずっと、謝りたかったんです。
私が、あの時先生を引き止めてしまったから。私のせいで先生と奥さんをーーー」



「はい、ストップー。朽木には、先生から、愛のペナルティを与えまーす。」


「・・・え?」


それは生前聞きなれた海燕の決まり文句。

ルキアが暗い顔をして一人で俯いていると、よく側に近づき、同じ言葉を言ったものだ。


そして、その言葉が意味することはーーー



海燕は、ルキアの頭を掴んでいた手に力を込める。



「い、痛っ?!せせせせせ先生!!痛い痛い痛い!!!!」



ルキアは目の端に涙を滲ませ表情も豊かに歪め、必死になって海燕に訴えたが、海燕は無視して力を込める。



「おまえなー、俺がそんなこと気にしてお前呪うような、器のちっさい男だって思ってたのか?!」


「先生!!痛い痛い痛い!!!本当に、痛いんです!!!」


「お前より俺のガラスのハートが痛くて壊れそうだってーの!・・・反省したのか?」


「しました!もう反省してます!!本当です!ごめんなさい!!!」


ようやく手を放した海燕は、頭を抱えよろめくルキアに満面の笑みを見せた。


「うぉっし!!なら、許してやるか!
いいか、今後同じようなこと思いやがったら、こんなアイアンクローだけじゃなくて、
もっと素敵なペナルティ用意してやっから覚悟しとけよ!」



ルキアは余波でまだズキズキ痛む頭を抱え、それでも海燕を見ていたく、涙に潤んだ瞳で海燕を見上げた。

そして、ずっと聞きたかったことを海燕にぶつけてみる。


「・・・先生は、なぜ今まで、あんなに悲しい顔を、してらしたんですか?」



ルキアの問いに海燕は、少しだけ寂しそうに笑った。
でもその寂しさは、今まで見ていた救いのない寂しさではなく、ルキアの心情を察した思いがその表情になっていた。


「そりゃ悲しかったさ。

今日まで声かけようにもお前の壁が厚すぎて、全然、俺の声が届かねぇんだもん。

お前はいっつも俺らの事思っては、絶望的に落ち込むばっかりだし、全然救い様がない状態だったしな。

でも今日は壁に少しの隙間が出来てたから、最後のチャンスだと思って、決死の覚悟で飛び込んできたんだぞ!」



やはり私が、先生を悲しませていたのか。

ルキアは愕然としながらも、いつ醒めるともわからぬ夢に、急いでもうひとつの疑問を口にした。


「先生・・・。寂しくは、ないですか?」



「そりゃお前達に会えないのは寂しいけどな、都も一緒にいられるし、こっちも思った程悪くない。」


海燕は割りとなんでもない風にそう答えると、ルキアの目線に合わせて足を折り、真っ直ぐに目を合わせた。




「でも一番辛かったのは朽木。お前が俺達のことで罪悪感しか感じずに、日々を過ごしている姿を見ていることだったよ。

俺達は運が悪かった。そして、現場に居合わせたお前も、本当に運が悪かった。

・・・な。そんな風に割り切れるとは思わないが、もう自分を責めないでくれ。

お前に責任なんて、最初からなかったんだから。」




「先生!!でも・・・でも・・・私は・・・!!!」



「なんだよ?まだ掴まれたいのか?」


必死な表情でまだ何かを言い募ろうとするルキアを威嚇するように、
海燕は指をにぎにぎしく動かしながら、片手をルキアの頭の上にかざして睨みつけると、
先ほど掴まれた頭の痛みがまだ完全にとれていないルキアは、表情を強張らせ恐れをなしてやや後ずさる。



「・・・いいえ。そうでは、ないのですが・・・」


すると海燕は満足したようにニカッと笑い、それからルキアの頭を乱暴に撫で回した。


「せ、先生?!ややや、やめてください!!」

頭をぐりぐりと回され、今度は痛みではなく頭を揺さぶられる衝撃にルキアは目を回して叫んだ。
しかし海燕の手は止まらず、楽しそうにルキアを小突く。



「お前は本当に莫迦やろーだな。なにが『私が殺した』だ!お前なんかに、俺は殺されたりしねーよ!

そんな事思うなんざぁ、一千億万年早いっつーの!!」




そして十分にルキアの頭を回しきると、手を離し、海燕はふらふらになったルキアに満面の笑みで叫んだ。



「朽木!元気に生きろ!

今は今しかないんだ!なんでもいいから楽しめ!そして喜ぶんだ!

俺達のことなら心配するな。忘れてもいいんだ。

ただ、お前が元気に精一杯生きていくことが、俺達にとって、なによりも供養になると思ってくれ。

俺達の分まで、強く生きろ。腰が曲がる婆さんになるまで生きるんだ!!・・・約束したぞ!」




海燕の姿と笑みが段々擦れ、遠のいていく。

ルキアは慌てて海燕を追い叫ぶ。





「先生・・・海燕先生!!!」

 






「せん・・・!」


自分の叫び声で目が覚めた。


頬を伝う涙。


だけどそれは今までと違って、暖かく熱いものだ。



海燕を、夢に見た。



詳細に内容は覚えていないが、笑っていた。



海燕が、笑っていた。



『俺達の分まで、強く生きろ。』



最後に聞いた、海燕の声が甦る。


ルキアは信じられない思いで、ゆっくりと身体を起こした。


寒くない。


身体が寒さに、震えていない。


変わりに胸の奥底で、何かが熱く脈打つのを感じてる。


泣きすぎたせいで身体は脱力感で頭は重かったが、カーテンの向こうから溢れる暖かな日差しを感じた。


雨が、止んでいる。


ルキアはよろけるような足取りで窓際に立ち、急いでカーテンを開ける。


窓の外にはいつもの建物の風景の上に、熱く息づく太陽が昇ったばかりであった。



空が、なんて青いのだろう。



ルキアがこの十年見た中で、驚く程澄んだ美しい青い空。



心に降り続いた雨が止み、ルキアは心からこの空の青さと美しさに、十年ぶりでやっと気がつけたのだ。



「・・・海燕・・・先生・・・」


ルキアは確認するように、海燕を呼んでみた。

あの大好きな笑顔を思い出しながら、大好きな人の名を呼んでみる。



夢だけど、夢じゃない。



私はやっと、大好きな海燕先生に、会えたのだ。



暖かな日差しに全身を照らされ、ルキアは嗚咽をあげながら、息づく心の命じるままに再び熱い涙を流した。






『強く生きろ。』







海燕の声が、聞こえた気がした。






『 あ お ぞ ら 』 (現代パラレル 過去編10)






※※※※※※※※※※※※※※※※※

 

 

「みてみい。これが、花園なんか?」

男に示され、娘は花園の外の世界を見渡した。

止んでいる。

ずっと振り続けていた雨が、止んでいる。

空には青空が広がり、雨雲ひとつ浮かんではいなかった。

振り向くと先程まで娘の居た強固な柵に囲まれた狭い空間は、真っ暗は闇の中に沈んでいる。

「これは一体どうしたことだ?雨は?あの花は、一体どこへ消えたのだ?」

呆然と呟く娘に、男はきっぱりとした声で答える。

「花なんぞ、初めから咲いとらんかったんよ。」

「初めから・・・?」

「罪の意識にありもせん花園の幻に捕らわれ、君は周りをなんも見んようにしてきたんや。

でもそこ出てみい。世界は広く、雨も止む。

・・・君はもっと、そーゆーことを、知っておくべきなんよ。」

「・・・世界。」

娘は呟き、そして自分を照らす太陽の存在に気がついた。

花は娘の罪の意識の結晶であり、その場に留まるための枷でしかなったのだ。

しかし太陽の陽の下、その幻は跡形もなく消え去った。

突然娘の胸から大きな氷の塊が落ち、日に照らされ粉々に砕け散る。

そしてその氷の下に押しつぶされていた、娘の心が力強く息を吹き返す。

陽の光は暖かく、冷たい雨に濡れていた娘の心も身体もゆっくりと温めてくれた。

暖かい。

そう感じた娘の頬を、熱い涙が滑り落ちていった。

 

 

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gin top

※2008.11.7

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